銀馬車とは

歴史 明治時代初めに出来た日本の『高速道路第一号』

生野銀山と飾磨津を結ぶ夢の道路

昔の鉱山入口

「銀の馬車道」は、明治初期、生野銀山と飾磨津(現姫路港)の間、約49Kmを南北に結ぶ馬車専用道路としてつくられた道で、当時は「生野銀山道」「生野鉱山寮馬車道」と呼ばれました。

明治元年、新政府は生野銀山を国営化し、外国人技術者と最新設備を導入して近代化を図ることで、銀の増産をめざします。その背景には、織田・豊臣・徳川の時代から明治の後半に至るまで、銀が重要な財源だったことがあげられます。
多くの鉱山が山深い地にある中、近くに城下町・姫路や飾磨津という大きな流通拠点があり、それらと生野をつなぐ市川沿いの低地地形という恵まれた地理的条件が、生野銀山の生産活動を支えました。

しかし当時、姫路に至る道といえば、細く曲がりくねった街道だけ。その道を人や馬の背に荷物を載せて往来するか、市川を小さな高瀬舟で下るしかなかったのです。人足などによる輸送費も高く、機械化を進める生野銀山で使う大量の資材や、精錬された銀などを運ぶには、新しい輸送手段の確保が大きな問題でした。



史跡生野銀山の入口

3つの案から選ばれた道

播州各所図絵

生野銀山と飾磨津(現姫路港)をつなぐ新しい輸送手段として、3つの方法が検討されました。

1つ目は、市川を利用した船運です。当時は中流域から高瀬舟が運航していましが、拡幅等の工事費に莫大な費用がかかるうえに、渇水の心配がありました。2つ目の鉄道敷設も、輸送量の割に多額の費用がかかるため見送られました。

最終的に選ばれた3つ目の馬車道建設は、一からつくるのではなく、昔からある街道をもとにして馬車が通れる最新式の道路に改修するプランでした。工事費が鉄道や船運に比べかなり安いうえ、人足ではなく馬車で荷物を運べば輸送費が8分の1となる利点がありました。

日本でかつてない大プロジェクト

戦前に活躍した馬車

1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コワニェが選んだレオン・シスレーを技師長として、馬車道の工事が始まりました。

道路を水田より60㎝高くし、あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめるヨーロッパの土木技術「マカダム式」を導入して、馬車がスムーズに走行できるように、雨などの天候に左右されない排水性の高い堅固な道につくりかえる工事が3年がかりで行われ、1876年(明治9年)に“日本初の高速産業道路”と言うべき「銀の馬車道」が完成しました。

馬車道建設で特に難関だったのが、大小あわせて20を超える橋の架設でした。最も難工事を極めたという生野橋のたもとに建てられた「馬車道修築」の碑には、当時の日本では未曾有の事業であったことが記されています。


当時の馬車は木製の2輪車でした。積み荷も少なく、荷台の先にカジ棒をつけていたので、四つ角では大回りをしなければ回れませんでした。

①車輪/樫の木製:径約1m(接地部は鉄板)
②車台/樫の木製:長さ3m、巾1m
③木枠/取外し可能:長さ2.5m、巾0.9m

明治時代に作られた「馬車」 近藤喜久子氏作図

近代日本の先駆け地域

初代「盛明橋」上の賑わい

1895年(明治28年)には、姫路~生野間に播但鉄道(現JR播但線)が開通し、飾磨津から生野銀山が鉄道でつながれました。こうした明治初期の市川流域における流通網の発達は、日本の大都市部に匹敵するもので、流通の大動脈として機能し、近代日本の産業経済の発展をリードした「先駆け地域」だったといえます。

鉄道の開通とともに徐々にその役割を終え、1920年(大正9年)には廃止された馬車道ですが、その後は改修や路線変更工事を経ながら、今も大部分が県道や国道などとして使用されています。

①路盤部/耕土取り除きの上、土砂混り粗石
②表層部/3cm程度の小石、厚さ15〜20cm
③目つぶし砂利/1cm程度の豆砂利と砂
④水田より60cm高くする

マカダム式舗装断面図 池谷春雄氏作図

「銀の馬車道」の値段はいくら?

マカダム式道路をつくるのにかかった費用は88,384円でした。その内訳は、建設費用52,500円(1mにつき1円50銭)、民家の立ち退きなどの費用に25,884円、技師シスレーに払った費用10,000円でした。

シスレーの月給は300円。「え〜安い!!」なんていうのはだれ?今のお金の額にすれば約1,200万円ぐらいになるそうですよ。